セフレ批判からセフレ原理主義になれるか
すでにお互いの存在を知っている友人、知人、別れた恋人などをセックスフレンドにするのでない限り、セフレ候補として選ぶことになるのは「まったく知らない異性」ということになります。
セックスフレンドを相手にしたセックスを通して、ついつい相手に情を抱いてしまう、ということもありますが、それがセックスフレンドという関係性である以上、セフレとは基本的には肉体のみの乾いた関係性を築くに越したことはありません。
セックスフレンドという肉体関係は、セックス以外の要素が極力排除されていることから、「セックス以外の面倒なことをあまり考えなくてよい」ということや、「セックスフレンドとしての関係を解消するにあたって後腐れがないまま関係を断ち切ることができる」ということが利点として挙げられるのではないかと思います。
このセフレという肉体関係に特有の「乾いた流動性」ともいえる利点を活かすことを考えると、セックス以外の精神的な要素がどうしても付随してくるような友人、知人、別れた恋人などをセフレにするよりも、お互いのことをまったく知らない「未知の異性」をセフレにしたほうがいくらか気楽である、ということは明らかでしょう。
そのような、まったく知らない異性とセックスフレンドの関係を築くことができた場合、セフレという関係を通して相手について知っていることはただただセックスのみ、という幸福な状態で会い続けられるのですし、セックス以外のことを何も知らないまま、二人の間にはセックス以外のことは何もなかった、という状態で人間関係を終わらせることが可能です。
出会い機会の減少は、セフレ候補の数の減少である
しかし、異性に限った話ではなく、同性を相手にした場合でも、まったく知らない他人と新たに出会うというのは非常に難しいことです。
特に、就労先が固定されており、これといった変化もない単調な日々を反復するだけの暮らしをしているタイプであれば、馬齢を重ねれば重ねるほどに、出会いの機会というものはじわじわと減少していく傾向があります。
このようなタイプが突然「誰かと出会いたいな」と感じたとしても、他者との出会い方がさっぱりわからず、途方に暮れるばかりで、欲求不満を抱いてより一層孤立を深めていくというパターンが待っていることさえあります。
「出会いの機会が減少する」ということは「セフレ候補の数が減少する」ということに直結しています。
ですから、就職してからある程度の年齢を重ねている、人脈がある友人がいない、自分の生活が単調で新しい出会いがまるでない、ということをもし自覚しているのであれば、セフレ獲得が非常に難しい状況にあるという危機感も同時に持たなければなりません。
出会いがないタイプの人間がセフレ候補に出会い、セフレを獲得するためには、必要以上に多くの積極的な行動をしなければならないでしょう。
セフレ候補が集まるセフレスポットと呼べる場所を可能なかぎりおさえ、それらのセフレスポットに積極的に足を運ぶ能動性を発揮し、そのセフレスポットで他者と出会ってセフレ関係を築けるような自分を構築して維持していくことが、セフレ獲得の場においてはたえず要求されます。
セフレゲットのためのたえまない情報収集と、セフレ候補と出会い、セフレ関係を結ぶ交渉、およびセフレ関係の維持のためには、おそらく、「なんとなくセフレがほしい」と考えている人が想像するよりもはるかに大きい様々な労力が必要とされます。
「セフレを作ろう」と考えたもののすぐに断念してしまう、早々に諦めてしまう人が一定数いるのは、「セフレを作る」ということが想像以上に多くの困難をはらんでおり、非常に面倒である、という現実に早い段階で直面するからです。
「セフレづくり」に関しては、ある程度の情熱や強い欲望がない限り、セフレ獲得の道に立ちはだかる幾多の困難と面倒を乗り越えることがきわめて難しいと言わざるをえません。
セフレゲットは本当にセフレを欲しているかどうかに左右される
セフレ候補と呼べる見知らぬ異性が集まるセフレスポットに足を運べば確実に簡単にセフレが獲得できる、というような保証はどこにもありません。
セフレ候補を実際にセフレにできるかどうかは、その人の、セフレ獲得に対する強い情熱や欲望に左右されています。
セフレ候補を見つけ出し、実際にセフレを作ることに成功している人に共通しているのは、「セフレを絶対にゲットしてみせる」という鉄の意志であるように思われます。
私にできることは、セフレ候補と出会うことができるセフレスポットや、そこで要求されるであろう諸要素を紹介することに留まるでしょう。なぜなら、セフレに対する「情熱」や「欲望」を誰かに貸し与えることも教えることも私にはできないからです。
セフレ獲得のために要求されることを、もし一つでも「面倒だな」と感じるのであれば、セフレ獲得への道は遠のいていくことになりますし、そう感じた場合は、一度、「セフレ」という関係を欲する自分の情熱や、「セフレ」という関係性それ自体を根底から疑って批判してみたほうがよいのかもしれません。
「セフレ」という関係性の特性を吟味し、「セフレ」を批判した上で、「それでもセフレしかないのだ」という地点に改めて立ち、セフレゲットの困難をすべて引き受ける。いわば「セフレ原理主義者」と呼べるような存在になれるかどうかに、セフレゲットの鍵はあるように思われます。
セフレ探しをしないとわからない地点に立つ
「セフレ候補が集まるセフレスポットに足を運ぶ」という行動は、もし、「足を運ぶ」だけであるならば、「他者との出会いの機会がある空間に身を投じる」ということでしかなく、その「出会い」の先に歩を進めるとなると、途端に難易度があがってしまう、ということを覚悟しなければなりません。
もちろん、「セフレを作るために」という理由であっても、「他者と出会う機会」をつくることには、それだけで大きな価値があると私は思います。
もし、あなたが孤独を愛せる人間ではなく、一人でいることに少しも耐えられないようなタイプであるならば、「セフレスポットに足を運び、セフレ候補と出会う」ということは、ただそれだけで、「セフレを獲得し、セフレとセックスをする」というのと同程度の価値を持つことにもなるでしょう。
実際、セフレ探しをしていたものの、異性の知人や友人が増えていく過程で精神的な充足を感じ、「セックス」という肉体的快楽はそれほど必要ではなかったのではないか、と気付かされ、セフレ探しをやめるタイプの人間もいます。
「セックス」をしたことにより「セックスなどこの程度のものでしかない」と、セックスでは決して満たされない部分を発見し、「セフレ」を見切る人もいます。
しかし、単なる「出会い」だけでは孤独が決して癒やされず、どうしても「性行為の快楽」を必要としている、真に「セフレ」を欲している、というのであれば、この「セックスの手前」の「出会い」の地点に立ち止まる限りは、不満足な、性的欲求不満の状態が続くことになるはずです。
「セフレを絶対にゲットしてみせる」という鉄の意志が芽生えるのは、おそらく、この地点をおいて他にはありません。
セックス以外でも解決する精神的な寂しさを抱えているのか、肉体が本当にセックスを切望しているのかは、実際にセフレ探しをして、セフレとセックスをしてみなければわかりません。
ここで「自分は性的快楽を切実に求めている」となった場合は、「果たして、その相手がセフレである必要があるのか」という問いもおのずと生じてきます。
この問いが生じてくる地点は、「別にセフレにこだわらなくてもいいのでは」と思ってセフレづくりをきっぱり辞めていく人と、「いや、やはりセフレなのだ」と意志を固める人とにわかれる分岐点でもあるでしょう。
なぜセフレなのかと問いつめてみる
当たり前の話に感じられるかもしれませんが、そもそも、性行為がしたいだけであれば、何も「セフレ」にこだわる必要はないわけです。たとえば、性的快楽を得るためのてっとりばやい方法としては、まずは「性風俗」が挙げられるでしょう。
「性風俗」は、「セフレ」をゲットするために必要とされる様々な能力や、困難、面倒などがあらかじめ取り払われた上で、「性行為」への直線的かつ確実なルートが整えられています。おそらく、「セフレ」とは比較にならないほど簡単に「性的快楽」が得られるのが「性風俗」の強みです。
「『性風俗』と『セフレとのタダマン』は違うのだし、やはり『タダマン』をするならば『セフレ』なのだ」という意見もあるかもしれません。
ですが、「セフレ」を獲得するために支払うことになる様々な雑費(セフレスポットへの参入は、何かしらの出費が発生するものですし、ゲットした「セフレ」によっては、性行為に金銭を要求してくることもあります)などを考えますと、金銭的な負担も、「性風俗」と「セフレ」ではそれほど変わらないのではないか、というのが私の考えです。
性風俗には本番禁止の店なども多いため、「挿入」を前提とした性行為のみを「セックス」と呼ぶのであれば、「風俗ではとても満足できない」ということもあるでしょう。そういった切り口から、「やはりセフレしかないのだ」という結論を出す方も多いかもしれません。
しかし、多少のリスクは伴いますが、ある程度の金銭を支払えば本番OKの風俗嬢というのがいて、お店に内緒で交渉次第でこっそり「挿入」させてくれる風俗嬢がいることを考えると、この「挿入」を軸にした理由もやや脆弱に感じられてしまいます。
また、「セフレ」にこだわらず、セフレ候補として出会った相手と「恋人」という関係になったとしても、セックスは可能です。この場合、しがらみや拘束などもセットとはいえ、精神的繋がりを獲得したうえでセックスもできるわけですから、言い方は悪いですが、肉体関係のみで成立する「セフレ」よりもだいぶお得であると考えることもできます。
「恋人」相手の「セックス」であれば、「性風俗」と違って「挿入」のある「セックス」も容易でしょう。もちろん、性行為のたびに金銭も発生する、ということもありません。
このように考えていくと、「セフレでなければならない理由」というのは、だんだんと薄れて弱まっていきます。
セックスをする相手が「職業女性」ではなく「素人の女性」であるということ。「セフレ」という関係を築くまではある程度の金銭と労力が発生するが、「セフレ」という関係を築いたあとは一定期間「タダマン」ができる可能性があること(しかし、それはセックスのみで繋がっているために、自然消滅しやすい固定されない関係でもある)。
「セフレ」の持つ数少ない強みと、「セフレ」でなければならないという立脚点は、おそらく、この二点に尽きるのではないか、と私は考えています。この二点に徹底的にこだわったときに、「セフレ原理主義者」と呼べる存在が誕生することにもなるでしょう。
様々なセックスの選択肢を振り切って、「なぜセフレなのか」と問い続け、自分の批判のルートで「それでも、どうしてもセフレでなければならない」という揺るがない結論が導き出されたのであれば、もはや、あなたには「セフレ」しかありません。
あなたの「セフレ」に対する欲望や意志は、まごうことなく、本物です。あなたは、「セフレ原理主義者」です。「セフレ原理主義者」に対して、私から言えることはただ一つ、全身全霊をかけて「セフレ」をゲットしてセックスをしまくりましょう、という言葉だけです。